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「MIND」p158~ ジョン・R・サール

p158
宇宙の中で 因果的に機能するものは 全て宇宙の一部でなければならない という当たり前の 意味で 物理的な宇宙は 因果的に閉じている 、主観的質的であること 志向性は 物理的なものに関する 三つの基準 空間的な位置と 広がりを持つこと ミクロな物理学によって 因果的に説明可能なこと 因果的に作用しシステムは 因果的に閉じていること からすると物理的である、 それら三つの性質は ある特定の期間の 脳内のある空間に 位置しており より低レベルの 過程から 因果的に説明可能で 因果的に 作用できる

著者は高名な 哲学者と 思っていたが それは間違いのようだ、 言葉一つ一つの使い方のいい加減さ 呆れてしまう 物理的物理的と言いながら何が物理的なのかの説明が全くない 、心的なものが ある特定の 期間の脳内の ある空間に位置しているなどと 何を理由にそのような 断言 ができるのか すべてがすべて 著者の考えの 過程が示されずただ 断言している 、これが哲学する様なのか呆れて物も言えない

 

p159
脳内の 空間で生じる あらゆる 心的な活動は 脳内のミクロな過程によって引き起こされる

脳内の空間で生じるあらゆる心的な活動 というのが本当なのかどうなのかというのが 一番の問題なのに 何も説明もせずに シラット 断言をして議論を終わらせている、 なんなのだこの人は

p159
人間や動物といった有機体のような物理的なシステムが 質的主観的思考的といった 状態を備えているはずがない と考えるのは不合理だ

物理的なシステムが 質的主観的状態を 備えている ことを言いたいがために、 いかにも人間や動物が物理的なシステムであるかのように ごまかしをしている、 人間や動物は物理的なシステムを含んだ生物的心的なシステムなのである

p159
これが本書の最も 重要な主張の一つだ 一旦伝統的なカテゴリーを事実に合うように 改定したなら 心的なものとしての心的なものが 物理的なものとしての物理的なものであることを 認めることに問題はない、心的なものと物理的なものについての従来のデカルト式の定義を共に改定しなければならない

なんなんだこの人は こんな説明で 重要な問題を終わらせたかのように勘違いしている、 このいい加減な 考え これ以降も こんな考えに付き合わなければならないのか 時間の無駄にしか思えない

p164
意識を 神経的な基盤へと 因果的に 還元することはできる、 だが その還元は 存在論的な 還元を導くものではない 、なぜなら 意識は 一人称的な 存在論を備えており もし意識を三人称の 用語で 定義し直せば 意識と言う 概念を持つことの 意義を 失うことになるからだ

ここに来てまともなことを言い始めている感がある、今までの ページに書かれている内容と 違った内容が書かれ始めてる気がする 、ただ意識を神経的な基盤に 因果的に 還元することはできると言うが それは違うだろう、 二つの経路があり 足を踏まれた痛みというのは神経的な情報となり脳に到達し 次に不明な何かの作用により 意識として認識される 、逆に 哲学を考えようという意識は 体を使って周りの状態を、 考えることができる環境に 整えるだろう、 足を踏まれたからあるいは何らかの神経的な刺激によって哲学を考えようという意識にはならない 、意識には二通りあり 神経の刺激を即物的に 認識する機能と 、独自に 何かを 行おう という 物理的神経的なものとは全く関係のない 機能 の 二つ である

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「MIND」p156~ ジョン・R・サール

p156
消化が 消化器系の生物学的な性質で あるのと同じように 意識とは脳の生物学的な性質だ

意識とは脳の生物学的な性質だ、何故、著者はこうも簡単に言ってしまうのか、自身でも一人称で発生する意識と、三人称であらわす物質とは次元が違う、という考えを述べている、それがこうも簡単に意識と脳の関係を述べてしまう、コトバの厳密な使い方をすっ飛ばしてしまう、著者の意識あるいは脳の中身を見てみたいものだ、脳の生物学的な性質と 意識との間には 大きな飛躍がある、 その飛躍を埋めない限り 脳と 意識との関係性は不明のままだ 、主観的な意識という言葉は 客観的なあらゆる対象に 対応はしない 、消化器系の生物学的な性質に つけられた名称が客観的な言葉である消化という言葉である、 客観的な脳の生物学的な性質に 主観的な内観で初めて感じる意識という名前をつけるのは 誤りだ、 主観的に感じることができる意識という名称を 客観的なあらゆる対象に対して その名前を付与するというのは 誤りだ 、その二者 は別物であり その間の 隔たりを埋める作業 、関係性を 探る作業を をしなくてはならない

p157
内在的 主観的な 心的要素を 織り込める 物理的なものという概念を拡張する必要がある

全く逆であろう 、物理的なものを 心的要素に織り込める 拡張が必要なのである、 著者の 主張を全て 逆にすれば いいのだろう 、つまり心的を物理的に物理的を心的に 、私の 考えの過程を再度述べよう、 まず 自分がいて 周りを眺める 自分が椅子に座り前にある蛍光灯を眺める 、目をつぶる 、蛍光灯は いなくなり 暗闇だけが残る 、つまり 客観的な情報は 自分の意識が作り出している、 全ては自分の意識から 始まる 、全ては自分の意識・心に 支配されるものだ、 自分の意識・心から はみ出たものは つまり意識はできない

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「MIND」p128~ ジョン・R・サール

p128
ネーゲルの議論はこう述べている、私の身体は 私の心がないとしても存在できるだろうし まさにそのようにあるだろう 、従って私の心は私の 身体私の身体の一部 私の身体のいかなる機能とも同一ではないのだ

心の定義を考えなくてはいけない、 心とは何を意味してるのか 、自分に属する物質以外のもの全てを指しているということで説明がつくのだろうか、 喜怒哀楽・ 思索 ・問題の発見・目的への計画・ 実施する意識・ 悩み考え 決断する 、このように 列記し続けても定義の謎は深まる

p128
信念や願望と言った 志 向的な状態は 世界を他ならぬあるアスペクトのもとに表象している

このような言い方しかできない著者は 説明能力がないのだと思う 、著者が言いたいのはこういうことなのだろうか、 つまり 信念や 願望 というものは歴史的な空間的な背景を持ったそれぞれの 対象物を基盤にして、出来上がる

p141
二元論の失敗と物理的 科学の成功があればこそ ともかく現実世界について言われるべきことはすべて 完全に唯物論の観点から説明できるはずだという印象を与える 、還元できない 心的現象の存在は おさまりが悪いものだし知的に厭わしいと思える 、それは受け入れ難いものだ

そういう立場なら確かに 意味のない無鉄砲な議論をしたがるだろう、現実を無視して自分の言いたいことを言いたいように言う時間の無駄

p154 155
/ここからが 著者の 考えを 述べ始めている 最も興味のある部分へと移行する/
心的過程の全ては 神経生物学的な過程から 引き起こされることに 疑問の余地がないことを わたくしたちは知っている、 わたくしたちは喉の渇きが 神経的な過程によって 引き起こされることや 感覚それ自体が 脳の内側で 生じている過程であることを 疑いの余地なく知っている

何を言ってやがんで 、何のためにグダグダと ここに来るまで過去の哲学者の 過ちの数々を眺めてきたんだい 、相も変わらず著者はその過ち の山にまた石を積んでいる、 神経生物学的に 心的に 渇きが 生じる 過程は わかる 、それでは 教会または神社のお参りの前に 水を手に掛けて 清め る行為というのは何によって生じるんだい、 それは神経生物学的に生じる行いなのかい、違うだろう 、なぜ心から発生し神経生物学的に繋がる因果関係を 取り上げてみようとしない?、なぜ それを隠そうとする?、 著者も初めから 唯物論ありき、それに合わせてすべての 事実を都合のよいものだけをよ せ 集めようとしてるからだ、この世の中は唯心論でなりたっている と思う、五感で感じるものも全て心が感じるもの 、目をつぶるとすぐにわかる、 目をつぶるとあるはずの物理的なものが消える、 盲目の方は その世界が 日常の世界 、クオリオがそのように了解する、 思考実験で 全ての人が盲目である世界を考えてみよう、 全ての人の了解する社会 、クオリオとして 感覚できるのは 暗闇の世界、 つまりこの世は唯心論の一元論である、 心的なものも物理的なものも全て繋がって一元的なのである

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「MIND」p82~ ジョン・R・サール

p82
同一説への反論
ライプニッツの法則は任意の二つのものが同一であるなら両者は 全ての性質を共通に備えているはずだと主張する

※そうであろうそもそも 同一の定義自体がそういうことなのだから 心と脳が同一とは言えない 

p89
あなたと私が共にデンバーはコロラドの 首都 だと信じているとする もしそこに 私たちの脳状態の他に何もなく二人が 異なる脳状態の タイプにあるとしたら正確に言って私たちは何を共有していることになるのだろうか

トークントークン説とかタイプタイプ説とか 本当に レベルが低い議論をするものだ
このような ひどい議論をしている 哲学者の 先生方には 呆れてしまう

p92
機能主義の基本的な動機は いったいなぜ私たちは 人々に心的状態があると考えているのか という問いに答えることだった
その回答はこうだ
人々は信念や欲求を 抱く なぜなら人々の行動を説明したいからだ 機能主義はこうした 洞察 の全てを捕らえて きたと思う

この文章の意味がわかる人がいたら見てみたいものだ
翻訳が悪いのか 著者がおかしいのか こんな表現の混じっている本を 読破 するのは先が思いやられる

p105
消去的 唯物論はこう論じる
信念や欲求などを前提する理論とは何か それは 常識 、あるいは心理学の祖先学術論文では 通例、民間心理学と呼ばれている理論だ 、しかし今や 唯物論の物語が進むにつれて民間心理学は不適切で全くあやまった 理論だと 言うことがほぼ確実になった 、よってその前提となっている信念や欲求といった心的状態が錯覚であることが示されるということになる

開いた口が塞がらないと言う しかない
民間心理学とは一体何者か
なんにせよ 全ての人が実感している信念や欲求という概念を錯覚と言う このバカさ加減、 なんでこんなめちゃくちゃなことが 議論されてしまうのか 、この類の 哲学者は 認識の正しい方法を持っていないように見える
事実をまず確認する
その背後にある法則を考える
その法則を持って他の類似事象を説明する
こんなことは当たり前だろう 、まず初めに新年や欲求と言った 感覚概念が 全員が持っている という事実を認めるのが一番最初の 基本認識であろう 、それを認めずに何を議論しようというのかこいつらは


p106
神経科学が発展して もはや 信念や 欲求といった類の 概念は お払い箱になっている、 なぜなら そうした概念は 神経生物学のカテゴリーに適合しないからだ

一体何を言っているのか 、哲学者は 基本的な 認識方法論を持ち合わせていないように見える、 驚きを超えて 唖然とする、 こんなことが哲学の世界で 議論されているとは 時間の無駄だ 、まず現実を見ると信念や欲求というものは実在する 、それを見ずに神経生物学のカテゴリーに適合しないという 理由 で それらの概念を 無しとするのは 一体何なんだ 、こいつらは一体何なんだ

p107
心的なものと物理的なものに関してはそのように厳密が決定論的因果法則は存在しない、 したがって いわゆる 心 的な出来事は全て物理的な出来事である

何を言ってやんで、こんなことでよく学者をやってられるね 、心的なものと物理的なものに関して厳密な決定論がないなどといつわかったんだ、誰が言ったんだ、永遠にそうなのか、単純にまだ そこまでの 調査研究が進んでないだけではないか

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「MIND」p54~ ジョン・R・サール

p54

心的実体は 空間に広がるものではないからだ

※一体何を元にして著者はこのような断言ができるのだろうか
心的実体も不明なままそれが空間とのどのような関係を持つかも不明なまま何の現象を元にしてこの考えを導き出すのか全く不明である
哲学者はこのような言動が多いそれは物事を認識しその過程を説明する上でまったくもって間違った方法である
思索を行うもの、つまり科学者哲学者をすべて含むわけたが、彼らは次の方法でその思索の過程を述べなくてはならないはずだ

1.自分はこのような現象を真実と考える
2.その結果背景にある法則はこのようなものである
3.この法則を再度別の類似の現象でまた説明することはできていない、またはできている

 

p56
他人の心に関する知識の場合 推論に寄らないチェックを行う術はない
そこに何かがあるのかどうかを確かめるために中身を覗いて見るわけにはいかないのだ

※ もちろん他人の心を100%感じることはできない
その限界を知りながら他人の実際の気持ち心をその他人から言葉で聞き確認することはできる、そういう経験を積み他人の心を類推することはほぼ正しいということはいえている
著者のように他人の心を知ることは全くできないというような言い方は誤解を招く


p56
デカルトの文章の最初のステップは神の存在証明を必要とした


※知覚の問題において神の存在は不要である、あくまで人と対象物の関係性によって知覚の問題は明確になる
地動説から天動説への法則の移行過程を考えるとそれで十分である 


p57
デカルトは人間の知覚が一般に世界の正確な表象であるとは考えていなかったことを強調しておくことは重要だ
知覚の上では色や味や匂いや音は世界の一部であるように思える
しかし本当は対象は色や味や臭いや音を持たない
重要なのは知覚経験の多くが錯覚であるにも関わらず知覚経験を引き起こす外部世界が存在することをわたくしたちが確信でき、知覚から外部世界に関するある種の正確な情報をえられるのは疑いないということだ

※ 賛成である。
しかし、知覚ができない色や味や臭いや音を持たない対象を、考えることの、妥当性が不明である。
知覚経験を引き起こす外部世界を認め、その裏にある法則が、それ、といえば、正しい思索の方法であろう、その思索・法則を証明するためには、目をつぶり、耳をふさげば対象がきえることがわかればよいのか。


p58
二元論では、自己とはまさに心的実体と等しく心的実体の同一性はただそれが同一の心的実体であることによって保証されている。
しかしこれはまるで独断的な解決だ。

※自己とはまさに心的実体と等しいと思う。
心的実体の同一性はただそれが同一の心的実体である、などの表現を著者は本当に自分で理解しながら使っているのだろうか。
独断的な解決だ、と断じる著者もまた独断的である。
独断的にならないための方法は

1.対象となる事実を確認する
2.その背後にある法則を示す
3.その法則により他の類似の対象を説明する

この思索の過程を明らかにしない判断はすべて独断と言わざるを得ない


心的実態はそれほどの神秘的な力や特性のすべてをどうやって手に入れたのだろうか 

※これは非常に困難を極める問題であろう 
力の統一理論がまだ解決の途上であると同じように

私達の物理的な身体と意識経験の他にさらにそのような心的実体があると考える理由は何だろうか

※ 己を顧みてないそうすれば心的実体があるというのは明らかに認識できるであろう
心的実体とは何を意味する言葉なのか、 五感で知覚できる物以外の全てが心的実体と言っても良いのではなかろうか 
ヒュームまたはリヒテンベルクのような唯物的考えは論外であると思う

p64
デカルト式の実体二元論は心と体の関係を適切に解釈できなかったし筋の通った解釈も提示できなかった
実体二元論に基づけば肉体が滅びた後も魂は生き続けられると言う結論が導かれる
だが専門家たちの間では実体二元論はもはや検討に値しないと考えられている

※私の立場は実体二元論です
その思索の過程はまた後で述べようと思います
実体二元論はもはや検討に値しないとする専門家の説明を聞いてみたいものです。
私の考える心と体の関係は下記のものです
心のエネルギーが脳のある箇所に働きかけをする、それは脳内物質でありそれが神経回路網へと影響し身体が伴って動作する


物理学によれば宇宙に存在する 物質エネルギーの総量は一定である
しかし実体二元論には物理学では捕らえられない心的エネルギーや魂のエネルギーといった別種のえエネルギーが存在するという考えが含まれる。だからもし実体二元論が正しいとするとエネルギー保存の法則という、物理学の最も基本的な法則が誤っていることになってしまう

※宇宙に存在する 物質エネルギーの総量は一定、と言う怪しい科学もどきのことを言ってしまうのは真の科学的素養のない哲学者の限界なのか
こころ、魂というものがよくわからないにも関わらず、それに対してエネルギーという言葉を用いてしかも物理的なエネルギーという意味合いを持たせるというのは全く言っていることは意味をなしていない

p66
物理的な実態に基づくことなく意識を作り出せると言う考え方は想像してみることはできたとしても科学的な仮説としては論外だろう

※著者の結論に至る思索過程を示さずに断言しても説得力は全くない

p67
観念論の考え方は、宇宙は完全に心的である
人が物理的な世界だと考えているものはより根底的な心的実在のとる形態の一つに過ぎない

※この考え方は私の考えと全く一致している

p74
心とは身体の行動に過ぎないと主張される

※何が事実かをまず確認すべきである、誰しも自分の心があることは認識している、その心が思ったように体が動くこともわかる、逆に何かしら体が動くことによってまたは脳内の変化により心が生じているというそういう内省はできるだろうか、出来はしない、何が事実なのかを見極めレバこんな愚論は生じないはずだこれが多くの哲学者がまた唯物論者が唱えているというのは呆れたもんだ、何が事実でそうでないかを見極めるべき、ただ科学という言葉を最高のものとしてそこから何かを考えようとするから間違いなっている、現実を見なければいけない、今の唯物論者は本末転倒も甚だしい、なぜそんな当たり前のことがわからないのか、唯物論者が言う身体又は脳内の物質が変化することによってどんな心が生じるのか、その過程を全ては説明してもらおうではないか、そんなことはできるわけがない、なぜならばそうではないからだ


p75
科学的な主張は客観的に検証できなければならないそして人間の心について唯一客観的に検証できる主張とは人間の行動に関する主張だけだというわけである

※ 科学とは何か、それは認識の方法論の一つである、対象の事実を確認し、その背後にある法則を見出し、その法則を持って類似の対象を説明する、 客観的な現象とは複数の人が五感によって確認できる現象、つまり心以外のものを検証する時に使う言葉である、心の検証をする際に客観的という言葉は使えない、各々の内的な心の状態を言葉で表現しあいそれによって検証していくという手順をとらなければならない 、その状態を造語で客心的検証と名付けよう

p80
行動主義は実質上外的な行動の他に内的な経験があることを否定する

※こんな考えに関わりあっていた無駄な学者、無駄な時間、なぜこんなバカなことが許されるのか

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「MIND」p41~ ジョン・R・サール

p41
もし私の 自由意志が私の心の性質であり、他方で物理的世界ではあらゆることが決定されているとしたら、こころがどのようにして物理的な世界に影響をおよぼせるのかがわからなくな
る。
※物理的世界ではあらゆることが決定されている、とは、何のことか、ニュートン力学の適用範囲の現象か、生命を取り込んだ範囲をカバーするのか、そこを明確にしないから心身問題
はいつも定まらない。

 

p44
私の同一性は私の心的実体が同一であることによって保証されている。
※そのとおりだと思う

p45
デカルトは動物に心が無いと言った
※動物に心はあるでしょ、ただ、心の定義が必要、、感情・喜怒哀楽・思索・目的意識、、、

p46
人は眠るが、最小限の夢を見続ける、意識的であり続ける
※そうだろう

p48
脳内で起こっていることがいったいどのようにして脳の外側へ向かうことができるのか
※こころは表象を操作し、その中に生きる。脳内だろうが、脳外だろうか、区別は無い。

p50
物理的世界の一部ではない心的状態は、いかにして物理的世界に対して因果的に作用することができるのであろうか
※心的世界の一部である物理的世界、というべきであろう、何故なら、こころが物理的世界を認識しているのだから。

p51
無意識という言葉は実質的に何を意味するはずなのか
脳内の出来事にかかわるどのような事実がそれを心的であると同時に無意識的にしうるのか。
※無意識は、こころの運動様態のひとつである、無意識の情報が機能しつつ、現在の意識が造られている。

p52
人間の心理現象や社会現象の説明は物理学や化学の説明とは論理構造が異なっていると言われる。
※人間の心理現象や社会現象の説明は物理学や化学の説明とは論理構造は同じである。
いずれも、認識論の問題である。
対象を特定し、その裏側に潜む法則を見出す、

p53
心と身体の相互影響過程は、松果腺が結合点となっている。
※それは違うであろう、心と身体の相互影響過程は、今後の課題であろう、力の統一理論が今後の課題であるように、、

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「MIND」p1~ ジョン・R・サール

p16
どれも謝った一連の前提の上に成り立っている
その結果はどうかといえばよく知られている理論しかも影響力のある理論がそもそも全部誤っているという点で心の哲学は哲学の中でも類を見ないテーマである

※著者は大上段に振りかぶっているが果たしてその結果はどうなるか興味がある


p18
周りにある 椅子テーブル家木といた色々な物を眺めてみようこれらの物はどんな意味であれ主観的とは言えない
それらは誰かに経験されるかどうかに全く関係なくそこにある
心的なものはあくまで心的であって物理的ではないまた物理的なものがあくまで物理的であって心的ではない

※周りにある 椅子テーブル家木といた色々な物は、ヒトが感覚できてその認識ができる
そもそも、このような議論をし、このような本が書かれる、思索することは心的なことである。
人が関与することはすべてこころ的なもので始まりそして心的なもので終わる
心的なものの認識能力が基盤にありその上に立って議論の対象とする心的なものと物理的なものがある


p19
痛みのような意識体験が一体どうやって物理的な粒子からできている世界の中に存在できるのか

※どのように可能なのか、という質問に対しては何を答えればその答えとなるのか
どうやって月が地球の周りを回ることが可能なのかという質問に変えてみよう
その答えは 月と地球に関わる力の関係で説明ができる、答えを出した、ということになります。つまり目の前にある現象よりも一般的な概念言葉を用いて説明することにより納得したような気持ちになりそれを答えと言っている。
同じように考えるならば心と物理的存在の2種類があり、心の存在できる理由というのはそれよりももっと一般的な概念言葉で説明しなくてはならない。
しかしながらまだ人間にはそのような概念言葉法則は見つけ出されていないので答えもないということになる 。

また脳内にあるとされる 物理的な粒子が 一体どうやって心的な経験を引き起こすことができるのか

※この問いかけは逆であろう、つまり心的な運動が 脳内にあるとされる 物理的な粒子を変化させるのであろう。
なぜ、私はそのようなことを主張できるのであろう。
つまり哲学をするということは何をしてることになるのだろう
哲学も科学も全く同じことをしている、つまりある対象に対してその背後にある法則を求めその法則の確からしさを他の類似の現象で再確認し続ける、こういう行為を行うことが哲学をする認識をするということである
本書でのこの議論の場合、心の存在と物理的な存在はある、しかしその背後にあるお互いの関係性の法則を思弁的に考えたとしてもそれを立証する方法が今のところない、そういう状態で現在がある。
証明できる方法が無い場合、正当性を担保するのは、法則を導き出す過程が納得いくものであるか、否かによる。
私のそもそもの発想は見るにしてを考えるにしても全て人の心がありそれを前提に全てが始まる、ということは当然心の発動により脳内の物理的な様子が変化するという結論になるである、逆に脳内の物理的な粒子の動きが心をつくる、といってもそう考えること自体がそもそも心によって考えられている。
果たして、この思弁は納得のいく過程を経ているのか。

p19

主観的で実体がなく物質的でない意識という心的状態が一体どのようにして物理的な世界において何かしらの原因になり得るのだろうか

※心的状態が物理的なの世界に対しての影響力発動する仕組みというのはまだ不明である

果たしてそれは人知の及ぶ 範疇の問いなのかも不明である 


頭の中にある考えはどうやって遠方の対象や二回に及んだり注意を向けたりすることができるのだろうか例えばワシントンやロンドンパリで起こりつつある政治的な出来事に。

※心的な表象の操作によってそのようなことができるというのは現実である、その仕組みについてはまだ不明であるという認識を持つことが大事である。


伝統的な語彙は心的なものと物理的なものが相互に排除し合うことを当然の前提としている私はこれらの行為と前提を克服するつもりだまたそれを通して従来の問題を解決もしくは解消したいと思う

※楽しみである。


p20

必要なことは意識の詳しい構造ともっかの神経生物学が取り組んでいる研究の異議を調査し考察することだ

※そうかも、果たして何が出るか興味がある


p21

世界の性質には観察者から独立した性質と観察者に依存するもしくは観察者に関係している性質があるという区別

※そうだろう


自然科学は観察者から独立した事象を扱い、社会科学は観察者に依存する事象を扱う。

観察者に依存する事実は知識を備えた行為者によって作り出されるが意識を備えたその行為者の心の状態自体は観察者とは独立した心の状態だ。

私の手にある一枚の紙切れは私や他の人がそれをお金だとみなす限りにおいてお金であるにすぎない。

お金は観察者に依存している。だが人々がそれをお金だとみなしているという事実はそれ自体観察者に依存してい。

私は他の人々がこの紙切れをお金だとみなすことは人々についての観察者から独立した事実だ。

※意味不明。観察者、人々、意識を備えた行為者、、哲学特有の意味不明な文章、、


p22

地図の情報が派生的な志向性

と述べているのか、意味不明、、


p24

本書は、心の哲学こそが現代哲学で最も重要なテーマであり現在の標準的な見解(二元論、唯物論、行動主義、機能主義、計算主義、消去主義、随伴現象説)は全て誤っているという確信のもとに書かれている 

※それは、楽しみだ


p35

他人にも心があることを人はどうやって知るのだろうか

※ 自分を考え類推することによってしか他人にも心があるということを断定できない

心は各人の内部に存在することであるから他の人の心を知ることは心の性質上原理的に不可能である 


p40

人は本当の対象を知覚しているとする見解から 人は対象の観念を知覚するに過ぎないと言う見解への移行は哲学の歴史においては決定的に重要な移行であった 

※そもそも本当の対象なるものは存在しないと思う。 なぜならばすべては人の知覚を通じて世界が始まっているからだ

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「哲学入門」p49~ 戸田山和久著

p49
内容を持っているという意味において、意味論的なのである。

※著者は何をいっているのか、内容、意味の定義もしないで勝手に使っている、自分の言葉に酔っている、そんな二日酔いだらけの言葉の数々、
忙しい身にすれば、つきあってられない、

 

p50
文全体の意味
※ヒトは獲得済みの概念・表象作成能力を使い、世代を超えた時間、空間の実体験・具体物をベースにし、それらを概念・表象に変化させ、ヒトはその
概念・表象の中に住み、概念・表象を操作の中に住んでいる、統語論は、その操作の規則の事である。
ヒト間の情報交換とはその概念・表象の交換である。
意味が分かる、分からないとは、ヒト相互の概念・表象の交換の成功、不成功のことをいう。
意味が分からないとは、上述した概念・表象の規則に反している箇所があるときに生じる。

ヒトがつくった道具のコンピュータに対して意味論を問うことは、不毛の議論である。

p51
サールにいわせると、神経タンパク質は意味や、意識に欠かせない。

※サールって、ひどい、何なんだ、
(ところで、サールって、セクハラで退職したらしい、著作の内容と本人の振る舞いは別物、となるのか?)

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「哲学入門」p46~ 戸田山和久 

p46

知能というものを 振る舞いのパターンと考えるべきかその背後にあってそうしたパターンを実現している何かと考えるべきか。これについて決着をつけることはできそうにない。

著者は自分で考えているんだろうか、知能は、「パターンを実現している何かと考えるべき」しかないでしょ。
こんな著者の本を400pも読み続けて時間の無駄にならないか心配である。

p47
われわれには、「意味を理解する」とはどういうことなのかがよくわかっているわけではない。


ここを、しっかりと定義しないと、どうしようもないし、それを許している著者はどうしようもない。

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「哲学入門」 戸田山和久 p1~

p11

心というのはとどのつまり脳の働き、脳って物質脳の働きも結局のところ複雑が化学反応にすぎない
この世は要するに物理的なものだけで出来ておりそこで起こることは全て煎じ詰めれば物理的なもの同士の物理的な相互作用に他ならない

上記のように思考することは、精神の働きである。
唯物論、といっても、その単語自体が、精神のかたまりである。
唯心論、といっても、その単語自体が、精神のかたまりである。
つまり、精神(こころ)がモノもコトもココロも全てを包含している。

 

存在もどきたちをモノだけ世界観に描きこむ

逆だろう、
存在もどきしかない、
モノを存在もどきたちの中に描きこむ、ことしかできない、

還元主義
神経細胞が発火することがバナナを意味することの正体がなのだ。

※プリオネが考えられていない、


ロボットの人工知能もバナナを意味することができる

※日本語になってない、バナナを意味するってどういうこと?
このような 表現をする人の文章は読みたくなくなる
この人の思索も似たように虚ろなものだろう

還元主義+観点
モノの集まりをシステムと考える観点に立てば、意味が出てくる。

※ 意味、の定義がされていない議論の進め方には吐き気がする。


発生的観点


物理的世界の中で存在もどきがそうでないもうから現れてくるプロセスを明らかにしそのシナリオを作る
存在もどきが、原機能、原目的、原意味、原価値、原自由エオセトラ、から徐々に湧いて出た過程を再構成する

※意味というものは
人間は実経験を基礎にして、概念(実体験を抽象化したもの)を作りだす。
その概念を複数の人間でやり取りする、その際にその概念を理解できないつまり受け取れなかった者が、その意味はどういう意味かという問いになる。
つまり意味というのは、概念が複数の人間でやり取りされている、まさにそのときの概念を意味という言葉を使ってあらわす。
モノがいかに複雑なシステムになっても、そこには、意味、というコトバは存在しない。
意味は、ヒトの存在の中にしか現われない。

 

p30
哲学の正しい理由はいったい何によって保証されるのか
彼は発生的観点から心を説明しようとしている
生き物が持つ表象能力が高まったことが自由価値目的の発生の原因としている
何を言うにも自由ではあるが言ったことの証明ができないのでは議論にはならない
つまり発生的観点を言うならば彼の言うところの表象能力の高まりの時系列の化石がなければ証明することはできない
それは無理というものであろう

p37
意味を理解するロボットあるいはコンピューターを作るにはどうしたらよいか

※意味、理解、のコトバの定義なしでの議論は筆者の浅はかさを示してあまりある

p40
かなりの率で機械の方を人間と判定するならば機械は知能を持っているといってよい

※知能の定義が無い、
知能は、ヒトに対して使用されるものであり、ヒトにより作り出される機械というのは知能という言葉とまったく縁遠いものである

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