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「科学哲学講義 森田邦久著」をもとに考察する

読書中、一体、何を考えているのか、森田先生は、
の思いで慄然とした、
これが、科学哲学を生業にしている方、方々のレベルなのか、
の思いで慄然とした、

 

それの思いにたどり着くまでの道筋をひも解いていく。

【私の結論】
この世には、真なる法則があり、その法則を究明したいという欲望が人間にはあり、思索を重ねていく。

この世の真なる法則への近似度合により、その思索の正しさ度合が測られる。
「科学」とは、その時代の範疇で、真なる法則に最も近似度合が高い思索に贈られる称号である。
つまり、「科学」とは、真なる法則への近似さ度合の思索の質の測定度量の単位である。
つまり、科学と非科学はグラデーション的に連続しているのである。

f(x,e)=y 

   f:法則・システム・関数(事象の相互関連性) 
 x:fを構成する変数 
  e:環境(時・空・知識制約条件)
   y:認知される事象

法則への思索とは帰納的方法により、fを求める行為である。
思索で求められた制約条件下でのf(x)(事象の相互関連性)はyにより確認される。
yにより確認された結果の優劣、度合が科学のグラデーションとなる。

 

【「科学哲学講義 森田邦久著」の場合】
科学哲学を広大な人間の思索という深淵から議論することなく、表面に出てくる手垢のついた「科学」のコトバで、「科学」を説明しようとする愚かさを演じている。
それ、悲観的機能主義とか、道具主義とか、奇跡論法とか、介入実在論とか、、、読めば読むほど、読者の頭脳を腐らせていく、筆者と同じ低レベルまで急降下で落とし込まれる加速度感が、不快感・脱力感を生んでいく、、、

【その詳細】
ズボンに入っている硬貨を例に規則・法則の違いについて述べているが、違いなど無い、制約条件の空間の違いである。著者が述べていることすべてが、私の「f(x,e)=y」の概念にすべて含まれ、解決される。
表面に現れる事象に個別に思索しても得るところは無いことが分からないのか、自分の頭で思索していないのか、思索しているとしたら、もっと、恐ろしい、、

p175

科学的説明とは何か

「科学的説明には因果説と統合説があります。」

意味不明、私の読み取り能力の欠如か、科学哲学者一般または森田邦久氏個人に由来する哲学する能力の欠如か
科学哲学者一般または森田邦久氏個人は自らの汗と涙で思索できないのか、
なぜ、その先へ、思索の核へと降りていかないのか、

私はこのように思索した、

ニュートンの万有引力の法則を題材に思索する

・なぜ、月が地球の周りを円運動するのか

A:地球の周りを月が円運動する
B:理由:月に働く2つの力があるから
   ・直線方向への力、地球に引っ張られる力
   ・直線方向の力:F=ma(m:質量、a:加速度)
   ・地球に引っ張られる力:F=GMm/r2乗

ここで、BはAの全体集合になっている
人の五感による認識A「地球の周りを月が円運動する」の理由を求めると
普遍的な法則Bが発見された。
普遍的な法則Bは、身近にある距離、質量の要素の関係性で成り立つ
法則とは
粗いレベルの五感での認識を、下位レベルのより小さな要素を用い、その要素間の関係を述べることで、五感での認識をせつめいしたもの
且つ、その法則で他の粗いレベルの五感での認識を説明できるもの
つまり、部分集合である五感での認識から、全体集合であるり小さな要素を用い、その要素間の関係を発見し述べること

科学に信頼を置く理由は
正しい観測情報により
その観測情報以下の基本要素を用いて、その要素間の関係性を述べる
その法則を用いて他の観測情報の説明ができる
つまり、部分集合の観測情報を、より基本的な要素でその部分集合の全体集合を作り出し、
その全体集合で、他の部分集合の説明がつく
から、その認識方法は科学と命名され信頼を置かれる

本書にある、説明の因果説、とか、説明の統合説、などの言説は思索の核の表面的な亜種であり、それらの中で遊んでも得られるものは無い、、、

 森田邦久氏が述べていることは、意味がわからない、果たして本人も、科学についてどこまで、わかっているのか、、、

 

私の読解不足なのか、他書を確認して再考してみます・・・