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2020年3月の記事一覧

シュタイナー 選集第十巻

シュタイナー 選集第十巻
p86
見霊意識は わたくしたちが 通常の 眠りの中で 無意識のままに 行うように 霊魂を 神体から離脱させます、 そしてその上でこの霊魂の営みをしようと努力します、 私がこれから述べようとするのはそのような認識によって得たものです

心霊科学の著書はいろいろあるが このような 己が己の肉体を 出て 霊魂となり霊魂の 世界を説明する 書籍は他にはない 、スウェーデンボルグも同じような霊界のことを報告しているが、シュタイナーはその体験を 今生きてる世界と 死後の世界にまたがっての論理的な説明をしているところが スウェーデンボルグと異なり、非常に得るところが多い、 他の霊能者の 現在の方々も ただ亡くなったかたとの交信の前ように止まり その奥にある 全体像世界観を描ききるものは いないように思われる

シュタイナーについて学ぶことは、科学・哲学の中でどのように位置づけられるのか、
心身問題にかかわってくる、それは現代の科学・哲学でも決着はついていない、
私は、デカルトの心身二元論の立場をとる、心独自の運動形態があり、死後も独自の運動を行うことも一理ある、

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現生のこころ、死後のこころ、の、認識論

現生のこころ、死後のこころ、の、認識論、
死後のこころ、といっても、特別なものではない、

ヒトがあるものを認識するとは、ヒトがある現象に関心を持ち、その現象の存在の正しさを観察し、その背後にある法則を見出し、その法則を使い類似の現象を説明する、という一連の行いのことを意味し、正当な行為であり、科学的認識行為と称される。---(A)
ヒトは社会的歴史的存在である故、上記の一連の行為は、社会的歴史的要因に影響下において為される。
ヒトは社会的歴史的要因を背負いながら、認識するのである。
天体の運動も、量子力学での素粒子も、現生のこころも、死後のこころも、分け隔てなく、関心がもたれるある現象なのである。上記(A)を満たす行いは科学的認識行為である。科学的認識行為によって生じる結果、法則の是非は、科学的認識行為により反論を述べることができるか、に依る。
現象から、死後のこころ、を除く態度は、科学的認識行為を逸脱するものである。
以降、死後のこころ、の、現象の存在の正しさを観察し、その背後にある法則を見出し、その法則を使い類似の現象を説明する、という一連の行いを進めていきます。

現生のこころ、に対する議論は、様々行われている、そして、結論らしきものは無い、百花繚乱状態である、
心身一元論、二元論、唯心論、唯物論、現象学、、、
私は、デカルトの二元論の立場をとる。
こころには、物質と違い、こころ独自の運動形態がある、それが、死後においても、継続してある運動形態を保持しても理論的には何のおかしなことはないであろう、

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「心的現象論」吉本隆明


p20
外界から 疎外された幻想と 身体から疎外された幻想とは 錯 合 しすれ違い割れ目を与えるのである

外界から から疎外された 幻想 とはいったい何なのか 用語が難しい 個人の幻想は外界を もとにmして生まれてくるもの 進退を元にして生まれてくるもの 二つがあるということを言っているのか

p23
生命体は アメーバから 人間に至るまで ただ生命体であるという理由で 原生的疎外の 領域 を持っており したがってこの疎外の打ち消しとして存在している

本当に意味が分からない

もう少し、分かる表現ができないものか、いまのところ、手におえない、、、

 

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「MIND」p216~最後  ジョン・R・サール

p216
もちろん信念欲求 それに思考過程と言った 洗練された 志向性は 知覚や飢えや乾きの感覚に比べてより複雑だし 環境からの影響による 脳の直接的な刺激からは 隔たったものだ、 だがそれらはまさに 脳過程より引き起こされ 脳のシステム内において現実化するのである

思弁的に何を語ろうと個人の自由ではあるが なぜその語るに 至った の過程を、 理由を述べなくては誰もが納得はできない 、著者はその真摯な作業を一切行なっていないように思える

p378
第一に この説明は 心的現象を 自然の一部としてのみ扱う 、意識や 指向性は 光合成夜 消化のような 自然世界の 一部として 考えられるべきである 、第二に心的現象を 因果的に 説明するために 用いられ る 説明装置は 自然を 全体として 説明するために必要な装置と同一である 、心的現象の 説明が試みられるレベルは 素粒子物理学の レベルというよりは 生物学のレベルである、 なぜなら 意識やその他の 心的現象は 生物学的な現象だからだ 、意識やその他の心的現象は 生物学的な 過程から 生み出される ある種の生物の器官に固有のものである

著者の結論として 述べている部分ではあるが 肝心要の 心と 物理的過程等を結ぶ 精緻な 説明は本書を通して 一切なされていないように思う 、例えば 脳内の ある化学的物質 がこのような 変化を起こす時に 心が備えている 化学物質を 感じ取れる部位があり その結合点に より 心に ある種の変化をもたらす 、また逆もそのように言える、 などの 客観的な証拠を 一切示さず ただ自分の信念・ 思弁 ・言いたいことだけを 言っている気がする、 それでは 何も言っていないことと同じであろう 、しばらく時間をかけて読んでみたが 本書は 著者の 無能力をひけらかすだけのものにしかないように感じた、 逆にそれは読みきれていない私の無能力の証拠かもしれないが 、私にとり得るものはほとんどなかったに等しい、 書籍を選ぶ場合にはどっぷり浸かる前に前後左右 チェックしながら 本当にこの書籍は時間を費やすのに 価値があるかどうかの判断をしてから取り掛かるべきであるということを痛感した

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「MIND」p175~ ジョン・R・サール

p175
1 二元論が主張する二つの領域 神的なものと 物理的なもの の 関係を 知的に 理解できるように説明しようせた人が 誰一人いないこと
2その過程が不要であること 一人称的な事実と 三人称的な事実は全て 分離した 二つの領域を 家庭しなくても 説明できる
3その過程は法外な困難を生み出すこと 二元論の立場をとると 心的状態と 心的な出来事が どのようにして 物理的状態と 物理的な出来事の 原因になるのかを 説明できなくなる 要するに 随伴現象修行 避けられない

もし私が身体が 滅びた時には 身体から 魂が 抜けれていくだろうと 考えたとしても それは論理的に可能なのだ 、だがそれは 宇宙はどのように 動いているかということについて わたくしたちが知っている 全ての事と相いれない

説明できた人が誰もいない、とか 困難を生み出すこと。、などの理由で 二元論を否定するのは どういう 意味なのか、そんなことで否定する根拠になるのか、 本当にこの人は哲学をしてるのか、自分でものを考えてるのか 、恥ずかしくないのか 、宇宙はどのように動いてるかなとは一体どこまで分かってるのだ、ほぼ分からないことが ほとんどではないのか 、それをもってして 相容れないなどよく言えたものだ

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「MIND」p158~ ジョン・R・サール

p158
宇宙の中で 因果的に機能するものは 全て宇宙の一部でなければならない という当たり前の 意味で 物理的な宇宙は 因果的に閉じている 、主観的質的であること 志向性は 物理的なものに関する 三つの基準 空間的な位置と 広がりを持つこと ミクロな物理学によって 因果的に説明可能なこと 因果的に作用しシステムは 因果的に閉じていること からすると物理的である、 それら三つの性質は ある特定の期間の 脳内のある空間に 位置しており より低レベルの 過程から 因果的に説明可能で 因果的に 作用できる

著者は高名な 哲学者と 思っていたが それは間違いのようだ、 言葉一つ一つの使い方のいい加減さ 呆れてしまう 物理的物理的と言いながら何が物理的なのかの説明が全くない 、心的なものが ある特定の 期間の脳内の ある空間に位置しているなどと 何を理由にそのような 断言 ができるのか すべてがすべて 著者の考えの 過程が示されずただ 断言している 、これが哲学する様なのか呆れて物も言えない

 

p159
脳内の 空間で生じる あらゆる 心的な活動は 脳内のミクロな過程によって引き起こされる

脳内の空間で生じるあらゆる心的な活動 というのが本当なのかどうなのかというのが 一番の問題なのに 何も説明もせずに シラット 断言をして議論を終わらせている、 なんなのだこの人は

p159
人間や動物といった有機体のような物理的なシステムが 質的主観的思考的といった 状態を備えているはずがない と考えるのは不合理だ

物理的なシステムが 質的主観的状態を 備えている ことを言いたいがために、 いかにも人間や動物が物理的なシステムであるかのように ごまかしをしている、 人間や動物は物理的なシステムを含んだ生物的心的なシステムなのである

p159
これが本書の最も 重要な主張の一つだ 一旦伝統的なカテゴリーを事実に合うように 改定したなら 心的なものとしての心的なものが 物理的なものとしての物理的なものであることを 認めることに問題はない、心的なものと物理的なものについての従来のデカルト式の定義を共に改定しなければならない

なんなんだこの人は こんな説明で 重要な問題を終わらせたかのように勘違いしている、 このいい加減な 考え これ以降も こんな考えに付き合わなければならないのか 時間の無駄にしか思えない

p164
意識を 神経的な基盤へと 因果的に 還元することはできる、 だが その還元は 存在論的な 還元を導くものではない 、なぜなら 意識は 一人称的な 存在論を備えており もし意識を三人称の 用語で 定義し直せば 意識と言う 概念を持つことの 意義を 失うことになるからだ

ここに来てまともなことを言い始めている感がある、今までの ページに書かれている内容と 違った内容が書かれ始めてる気がする 、ただ意識を神経的な基盤に 因果的に 還元することはできると言うが それは違うだろう、 二つの経路があり 足を踏まれた痛みというのは神経的な情報となり脳に到達し 次に不明な何かの作用により 意識として認識される 、逆に 哲学を考えようという意識は 体を使って周りの状態を、 考えることができる環境に 整えるだろう、 足を踏まれたからあるいは何らかの神経的な刺激によって哲学を考えようという意識にはならない 、意識には二通りあり 神経の刺激を即物的に 認識する機能と 、独自に 何かを 行おう という 物理的神経的なものとは全く関係のない 機能 の 二つ である

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「MIND」p156~ ジョン・R・サール

p156
消化が 消化器系の生物学的な性質で あるのと同じように 意識とは脳の生物学的な性質だ

意識とは脳の生物学的な性質だ、何故、著者はこうも簡単に言ってしまうのか、自身でも一人称で発生する意識と、三人称であらわす物質とは次元が違う、という考えを述べている、それがこうも簡単に意識と脳の関係を述べてしまう、コトバの厳密な使い方をすっ飛ばしてしまう、著者の意識あるいは脳の中身を見てみたいものだ、脳の生物学的な性質と 意識との間には 大きな飛躍がある、 その飛躍を埋めない限り 脳と 意識との関係性は不明のままだ 、主観的な意識という言葉は 客観的なあらゆる対象に 対応はしない 、消化器系の生物学的な性質に つけられた名称が客観的な言葉である消化という言葉である、 客観的な脳の生物学的な性質に 主観的な内観で初めて感じる意識という名前をつけるのは 誤りだ、 主観的に感じることができる意識という名称を 客観的なあらゆる対象に対して その名前を付与するというのは 誤りだ 、その二者 は別物であり その間の 隔たりを埋める作業 、関係性を 探る作業を をしなくてはならない

p157
内在的 主観的な 心的要素を 織り込める 物理的なものという概念を拡張する必要がある

全く逆であろう 、物理的なものを 心的要素に織り込める 拡張が必要なのである、 著者の 主張を全て 逆にすれば いいのだろう 、つまり心的を物理的に物理的を心的に 、私の 考えの過程を再度述べよう、 まず 自分がいて 周りを眺める 自分が椅子に座り前にある蛍光灯を眺める 、目をつぶる 、蛍光灯は いなくなり 暗闇だけが残る 、つまり 客観的な情報は 自分の意識が作り出している、 全ては自分の意識から 始まる 、全ては自分の意識・心に 支配されるものだ、 自分の意識・心から はみ出たものは つまり意識はできない

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「MIND」p128~ ジョン・R・サール

p128
ネーゲルの議論はこう述べている、私の身体は 私の心がないとしても存在できるだろうし まさにそのようにあるだろう 、従って私の心は私の 身体私の身体の一部 私の身体のいかなる機能とも同一ではないのだ

心の定義を考えなくてはいけない、 心とは何を意味してるのか 、自分に属する物質以外のもの全てを指しているということで説明がつくのだろうか、 喜怒哀楽・ 思索 ・問題の発見・目的への計画・ 実施する意識・ 悩み考え 決断する 、このように 列記し続けても定義の謎は深まる

p128
信念や願望と言った 志 向的な状態は 世界を他ならぬあるアスペクトのもとに表象している

このような言い方しかできない著者は 説明能力がないのだと思う 、著者が言いたいのはこういうことなのだろうか、 つまり 信念や 願望 というものは歴史的な空間的な背景を持ったそれぞれの 対象物を基盤にして、出来上がる

p141
二元論の失敗と物理的 科学の成功があればこそ ともかく現実世界について言われるべきことはすべて 完全に唯物論の観点から説明できるはずだという印象を与える 、還元できない 心的現象の存在は おさまりが悪いものだし知的に厭わしいと思える 、それは受け入れ難いものだ

そういう立場なら確かに 意味のない無鉄砲な議論をしたがるだろう、現実を無視して自分の言いたいことを言いたいように言う時間の無駄

p154 155
/ここからが 著者の 考えを 述べ始めている 最も興味のある部分へと移行する/
心的過程の全ては 神経生物学的な過程から 引き起こされることに 疑問の余地がないことを わたくしたちは知っている、 わたくしたちは喉の渇きが 神経的な過程によって 引き起こされることや 感覚それ自体が 脳の内側で 生じている過程であることを 疑いの余地なく知っている

何を言ってやがんで 、何のためにグダグダと ここに来るまで過去の哲学者の 過ちの数々を眺めてきたんだい 、相も変わらず著者はその過ち の山にまた石を積んでいる、 神経生物学的に 心的に 渇きが 生じる 過程は わかる 、それでは 教会または神社のお参りの前に 水を手に掛けて 清め る行為というのは何によって生じるんだい、 それは神経生物学的に生じる行いなのかい、違うだろう 、なぜ心から発生し神経生物学的に繋がる因果関係を 取り上げてみようとしない?、なぜ それを隠そうとする?、 著者も初めから 唯物論ありき、それに合わせてすべての 事実を都合のよいものだけをよ せ 集めようとしてるからだ、この世の中は唯心論でなりたっている と思う、五感で感じるものも全て心が感じるもの 、目をつぶるとすぐにわかる、 目をつぶるとあるはずの物理的なものが消える、 盲目の方は その世界が 日常の世界 、クオリオがそのように了解する、 思考実験で 全ての人が盲目である世界を考えてみよう、 全ての人の了解する社会 、クオリオとして 感覚できるのは 暗闇の世界、 つまりこの世は唯心論の一元論である、 心的なものも物理的なものも全て繋がって一元的なのである

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「MIND」p82~ ジョン・R・サール

p82
同一説への反論
ライプニッツの法則は任意の二つのものが同一であるなら両者は 全ての性質を共通に備えているはずだと主張する

※そうであろうそもそも 同一の定義自体がそういうことなのだから 心と脳が同一とは言えない 

p89
あなたと私が共にデンバーはコロラドの 首都 だと信じているとする もしそこに 私たちの脳状態の他に何もなく二人が 異なる脳状態の タイプにあるとしたら正確に言って私たちは何を共有していることになるのだろうか

トークントークン説とかタイプタイプ説とか 本当に レベルが低い議論をするものだ
このような ひどい議論をしている 哲学者の 先生方には 呆れてしまう

p92
機能主義の基本的な動機は いったいなぜ私たちは 人々に心的状態があると考えているのか という問いに答えることだった
その回答はこうだ
人々は信念や欲求を 抱く なぜなら人々の行動を説明したいからだ 機能主義はこうした 洞察 の全てを捕らえて きたと思う

この文章の意味がわかる人がいたら見てみたいものだ
翻訳が悪いのか 著者がおかしいのか こんな表現の混じっている本を 読破 するのは先が思いやられる

p105
消去的 唯物論はこう論じる
信念や欲求などを前提する理論とは何か それは 常識 、あるいは心理学の祖先学術論文では 通例、民間心理学と呼ばれている理論だ 、しかし今や 唯物論の物語が進むにつれて民間心理学は不適切で全くあやまった 理論だと 言うことがほぼ確実になった 、よってその前提となっている信念や欲求といった心的状態が錯覚であることが示されるということになる

開いた口が塞がらないと言う しかない
民間心理学とは一体何者か
なんにせよ 全ての人が実感している信念や欲求という概念を錯覚と言う このバカさ加減、 なんでこんなめちゃくちゃなことが 議論されてしまうのか 、この類の 哲学者は 認識の正しい方法を持っていないように見える
事実をまず確認する
その背後にある法則を考える
その法則を持って他の類似事象を説明する
こんなことは当たり前だろう 、まず初めに新年や欲求と言った 感覚概念が 全員が持っている という事実を認めるのが一番最初の 基本認識であろう 、それを認めずに何を議論しようというのかこいつらは


p106
神経科学が発展して もはや 信念や 欲求といった類の 概念は お払い箱になっている、 なぜなら そうした概念は 神経生物学のカテゴリーに適合しないからだ

一体何を言っているのか 、哲学者は 基本的な 認識方法論を持ち合わせていないように見える、 驚きを超えて 唖然とする、 こんなことが哲学の世界で 議論されているとは 時間の無駄だ 、まず現実を見ると信念や欲求というものは実在する 、それを見ずに神経生物学のカテゴリーに適合しないという 理由 で それらの概念を 無しとするのは 一体何なんだ 、こいつらは一体何なんだ

p107
心的なものと物理的なものに関してはそのように厳密が決定論的因果法則は存在しない、 したがって いわゆる 心 的な出来事は全て物理的な出来事である

何を言ってやんで、こんなことでよく学者をやってられるね 、心的なものと物理的なものに関して厳密な決定論がないなどといつわかったんだ、誰が言ったんだ、永遠にそうなのか、単純にまだ そこまでの 調査研究が進んでないだけではないか

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「MIND」p54~ ジョン・R・サール

p54

心的実体は 空間に広がるものではないからだ

※一体何を元にして著者はこのような断言ができるのだろうか
心的実体も不明なままそれが空間とのどのような関係を持つかも不明なまま何の現象を元にしてこの考えを導き出すのか全く不明である
哲学者はこのような言動が多いそれは物事を認識しその過程を説明する上でまったくもって間違った方法である
思索を行うもの、つまり科学者哲学者をすべて含むわけたが、彼らは次の方法でその思索の過程を述べなくてはならないはずだ

1.自分はこのような現象を真実と考える
2.その結果背景にある法則はこのようなものである
3.この法則を再度別の類似の現象でまた説明することはできていない、またはできている

 

p56
他人の心に関する知識の場合 推論に寄らないチェックを行う術はない
そこに何かがあるのかどうかを確かめるために中身を覗いて見るわけにはいかないのだ

※ もちろん他人の心を100%感じることはできない
その限界を知りながら他人の実際の気持ち心をその他人から言葉で聞き確認することはできる、そういう経験を積み他人の心を類推することはほぼ正しいということはいえている
著者のように他人の心を知ることは全くできないというような言い方は誤解を招く


p56
デカルトの文章の最初のステップは神の存在証明を必要とした


※知覚の問題において神の存在は不要である、あくまで人と対象物の関係性によって知覚の問題は明確になる
地動説から天動説への法則の移行過程を考えるとそれで十分である 


p57
デカルトは人間の知覚が一般に世界の正確な表象であるとは考えていなかったことを強調しておくことは重要だ
知覚の上では色や味や匂いや音は世界の一部であるように思える
しかし本当は対象は色や味や臭いや音を持たない
重要なのは知覚経験の多くが錯覚であるにも関わらず知覚経験を引き起こす外部世界が存在することをわたくしたちが確信でき、知覚から外部世界に関するある種の正確な情報をえられるのは疑いないということだ

※ 賛成である。
しかし、知覚ができない色や味や臭いや音を持たない対象を、考えることの、妥当性が不明である。
知覚経験を引き起こす外部世界を認め、その裏にある法則が、それ、といえば、正しい思索の方法であろう、その思索・法則を証明するためには、目をつぶり、耳をふさげば対象がきえることがわかればよいのか。


p58
二元論では、自己とはまさに心的実体と等しく心的実体の同一性はただそれが同一の心的実体であることによって保証されている。
しかしこれはまるで独断的な解決だ。

※自己とはまさに心的実体と等しいと思う。
心的実体の同一性はただそれが同一の心的実体である、などの表現を著者は本当に自分で理解しながら使っているのだろうか。
独断的な解決だ、と断じる著者もまた独断的である。
独断的にならないための方法は

1.対象となる事実を確認する
2.その背後にある法則を示す
3.その法則により他の類似の対象を説明する

この思索の過程を明らかにしない判断はすべて独断と言わざるを得ない


心的実態はそれほどの神秘的な力や特性のすべてをどうやって手に入れたのだろうか 

※これは非常に困難を極める問題であろう 
力の統一理論がまだ解決の途上であると同じように

私達の物理的な身体と意識経験の他にさらにそのような心的実体があると考える理由は何だろうか

※ 己を顧みてないそうすれば心的実体があるというのは明らかに認識できるであろう
心的実体とは何を意味する言葉なのか、 五感で知覚できる物以外の全てが心的実体と言っても良いのではなかろうか 
ヒュームまたはリヒテンベルクのような唯物的考えは論外であると思う

p64
デカルト式の実体二元論は心と体の関係を適切に解釈できなかったし筋の通った解釈も提示できなかった
実体二元論に基づけば肉体が滅びた後も魂は生き続けられると言う結論が導かれる
だが専門家たちの間では実体二元論はもはや検討に値しないと考えられている

※私の立場は実体二元論です
その思索の過程はまた後で述べようと思います
実体二元論はもはや検討に値しないとする専門家の説明を聞いてみたいものです。
私の考える心と体の関係は下記のものです
心のエネルギーが脳のある箇所に働きかけをする、それは脳内物質でありそれが神経回路網へと影響し身体が伴って動作する


物理学によれば宇宙に存在する 物質エネルギーの総量は一定である
しかし実体二元論には物理学では捕らえられない心的エネルギーや魂のエネルギーといった別種のえエネルギーが存在するという考えが含まれる。だからもし実体二元論が正しいとするとエネルギー保存の法則という、物理学の最も基本的な法則が誤っていることになってしまう

※宇宙に存在する 物質エネルギーの総量は一定、と言う怪しい科学もどきのことを言ってしまうのは真の科学的素養のない哲学者の限界なのか
こころ、魂というものがよくわからないにも関わらず、それに対してエネルギーという言葉を用いてしかも物理的なエネルギーという意味合いを持たせるというのは全く言っていることは意味をなしていない

p66
物理的な実態に基づくことなく意識を作り出せると言う考え方は想像してみることはできたとしても科学的な仮説としては論外だろう

※著者の結論に至る思索過程を示さずに断言しても説得力は全くない

p67
観念論の考え方は、宇宙は完全に心的である
人が物理的な世界だと考えているものはより根底的な心的実在のとる形態の一つに過ぎない

※この考え方は私の考えと全く一致している

p74
心とは身体の行動に過ぎないと主張される

※何が事実かをまず確認すべきである、誰しも自分の心があることは認識している、その心が思ったように体が動くこともわかる、逆に何かしら体が動くことによってまたは脳内の変化により心が生じているというそういう内省はできるだろうか、出来はしない、何が事実なのかを見極めレバこんな愚論は生じないはずだこれが多くの哲学者がまた唯物論者が唱えているというのは呆れたもんだ、何が事実でそうでないかを見極めるべき、ただ科学という言葉を最高のものとしてそこから何かを考えようとするから間違いなっている、現実を見なければいけない、今の唯物論者は本末転倒も甚だしい、なぜそんな当たり前のことがわからないのか、唯物論者が言う身体又は脳内の物質が変化することによってどんな心が生じるのか、その過程を全ては説明してもらおうではないか、そんなことはできるわけがない、なぜならばそうではないからだ


p75
科学的な主張は客観的に検証できなければならないそして人間の心について唯一客観的に検証できる主張とは人間の行動に関する主張だけだというわけである

※ 科学とは何か、それは認識の方法論の一つである、対象の事実を確認し、その背後にある法則を見出し、その法則を持って類似の対象を説明する、 客観的な現象とは複数の人が五感によって確認できる現象、つまり心以外のものを検証する時に使う言葉である、心の検証をする際に客観的という言葉は使えない、各々の内的な心の状態を言葉で表現しあいそれによって検証していくという手順をとらなければならない 、その状態を造語で客心的検証と名付けよう

p80
行動主義は実質上外的な行動の他に内的な経験があることを否定する

※こんな考えに関わりあっていた無駄な学者、無駄な時間、なぜこんなバカなことが許されるのか

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