科学・哲学の前衛としての臨死体験、異界、そして霊魂の周縁
科学と非科学
「科学の世界と心の哲学」 小林道夫著
第1章 近代科学の原点
1 アリストテレスの哲学と自然学
存在論
・事物の基本的存在-具体的個物-第一実態-実在の基盤
・対極にあるのが抽象/概念
認識論
・初めに感覚の内に無かったものは知性の内にもない
学問論
・分類
・幾何学と数論(算術)とは類を異にする
自然学
・自然事物の運動変化の四つの原因概念
・「素材因(質量因)」「形相因(本質)」「目的因」「起動因(作用因、動力因)」
「魂のライフサークル」西平直著
ユング・ウィルバー・シュタイナーの3巨匠をエリクソンの地平から眺めるという、壮大な構想の下に感情を抑えた冷静な筆致で描かれている。
ただ、ユング、ウィルバーが用いる概念は難解で、本書を読み通しても理解は困難であった。
その概念の成立は、どのような道筋により成り立ったのか、そして、それは妥当なのか、が腑に落ちないと納得はいかないものであろう。
その点、シュタイナーの概念は理解しやすい、また、その依って立つ根拠も自身の超能力に由来するもの、と、明確である。
本書の本当の蜜を味わうためには、
今しばらくしてから、本書にたちもどるしか、現在の私にはとる方法は無いようだ、、
「科学哲学への招待」野家啓一著 をもとに思索する
この本は、ワクワクする。
プトレマイオスの地動説からコペルニクスの天動説への転換の説明は、現代の対立する理論に対しても大いなる示唆を与える。
面白い、まずは面白い、
p36
宇宙は月の天球を境にして、月上界(天上界)と月下界(地上界)とに分かれる
地上の物体は四元素と「温冷-乾湿」の対立性質とが組み合わされて構成され絶えざる変化を繰り返す。
天上の物体は「エーテル」と呼ばれる不生不滅の高貴な物質、第五元素から形作られている。
地上界は生成消滅を繰り返す不完全な世界
天上界は永遠の秩序に支配された不動不変の完全な世界
地上の物体の自然運動は始点、終点がある上下の垂直運動
天上のそれは一様な円運動、始点も終点もない完全な図形
---私見
本書の通りなら、当時、
1.現象観察
2.その要因推測
までは、現代にも通じるが、推測した要因で現実に目の前にあるものが説明できるのかの検証がされていない。
BC300年頃のハナシなので、日本はまだ縄文文化時代、いたしかたないのか、、
p37
古代ギリシアのコスモスは、美しい秩序を備えており、それを説明する天動説も日常の知覚的事実とうまく合致していた。
古代天文学の「セントラルドグマ」
1.天上と地上の根本的区別
2.天体の動力としての天球の存在
3.天体の自然運動としての一様な円運動
変則事象
1.地球と惑星の距離が変化する
2.惑星の不規則な運動
これらは「一様な円運動」ドグマから外れている。
プトレマイオス
天動説
周転円説
三つの補助仮設を導入
・離心円
・周転円/副周転円・・80個
・エカント(擬心)
当時の観測データと高い精度で一致、優れた理論
唯一の欠点は、エカントを導入したことで地球から見た惑星の運動が「一様な円」というアリストテレス的自然観の中心的ドグマを外れる。
---私見
地動説から天動説への転換、
これは、天才的な啓示による飛躍ではない。
コペルニクスが、地動説の不備を感じ、その不備の解決のため、過去を遡り、先人の思索を猟歩しつつ、数十年考えつくして、辿りついた理論である。
※地動説の不備
一年の周期が確定できない。
現実を説明するに、周転円などを用い、それも人により異なる。
コペルニクスの歩み以外に、正しい認識をする方法は無い。
・現実を観察する。(部分集合を観察)
・その現実を成さしめる法則を見出す。(部分集合を含む全体集合を見出す)
・その法則で、他の現実を説明する。(見出した全体集合から、他の部分集合を説明する)
・それは時の科学の進歩度合、社会条件等に制約され、その変化とともに発見された法則も変化する。
つまり、いつになっても、条件付きの正しい法則である。(部分集合が変化し、それに従い全体集合も変化する)
(補足)
・認識とは、ヒトの五感で知る内容。ヒトが所与で有するものであり、それ以下の理由は問えないもの。認識の公理。
・説明とは何か、それは、生起している現実を、その現実以下の要素のコトバを用いて、その要素の関係性を述べるもの。
例:ニュートンの法則
生起している現実:月が地球のまわりを回る。
要素のコトバ:重力・加速度
その要素の関係:月の重力と加速度が加算されることにより、月が地球のまわりを回る。
・ここでの部分集合/全体集合の使い方、
法則(全体集合)に支配され、生起する現実(部分集合)
科学哲学は、それ以上の何を詮索する必要があるのか、、
アリストテレスによる「質料形相論」
実態形相があり、質料が変化する、今に通ずる
デカルト曰く
われ思うに、われあり、、、、、思う、ある、などのコトバが何を意味しているのか、デカルトは吟味しているのだろうか、
物体と精神は本質を異にする2つの実体
心脳問題、、物質たる脳に心が宿り、認識機能が始動する、としか、ヒトの知恵ではそれしか説明できないであろう、
p120
仮説演繹法1.観察に基づいた問題の発見
2.問題を解決する仮説の提起
3.仮説からのテスト命題(予測)の演繹
4.テスト命題の実験的検証または反証
科学も含めた、思索というものは、この過程を経ることは、自明の理である。
これ以外、何を言う必要があるのか、
仮説遠近法の行程に遠近差で位置している思索を、その遠近差の度合で、科学・非科学と呼ばれ、その差は明確のものではなくグラデーションで示される。科学と非科学は陸続きなのである。
第11章 知識の全体論と決定実験
1経験主義の二つのドグマ
・クワインの論理実証主義への批判
分析的真理/総合的真理への批判
私見/
これは、当たり前のこと、と思う。
こんなことを論争思索する事態が、関係者のレベルの低さを露呈している。
2 決定実験の不可能性
・知識の全体的なネットワークが検証・反証に晒される。
私見/当たり前、一つの理論は全ての時間的空間的質的な思索を包含して眼前にあるもの。
・光の波動と粒子の二重性の故、理論の決定不全性、とクワインがいう。
私見/光の波動と粒子の二重性を現実にした2つの理論を全体の理論としてみなせば、理論の決定不全性、とは言えない。理論が一つである必要は無い。
・科学と哲学との境界線を抹消し、、、
私見/当たり前、認識の様式として科学と哲学があるだけ。
・「予測と制御の目的に役立つ語彙を増殖させるもの」がプラグマティズムの精神なのである。
私見/バカ言ってんじゃねーよ、ってカンジ、
昔から言い尽くされていることを、奇異な表現にかえただけ、もっと、生産的な思索をしたまえ、学者さん。
第12章 パラダイム論と通約不可能性
1.クーンの問題提起
・ハンソンの観察の理論負荷性
私見/当たり前、
・クーンのパラダイム理論
私見/当たり前、いまさら、何をいってやがんで、ってカンジ
・クーンの通約不可能性
私見/異なった2つの理論を比較する尺度が無いって、アホ、現実を説明する法則を求める作業、は、常にどの理論においても同一の尺度である。
3.ラカトシュのリサーチ・プログラム論
私見/現実を説明する法則を求める作業、というシンプルな事柄に対し、思索をこねくり回している無毛な時間か、
「科学哲学講義 森田邦久著」をもとに考察する
読書中、一体、何を考えているのか、森田先生は、
の思いで慄然とした、
これが、科学哲学を生業にしている方、方々のレベルなのか、
の思いで慄然とした、
それの思いにたどり着くまでの道筋をひも解いていく。
【私の結論】
この世には、真なる法則があり、その法則を究明したいという欲望が人間にはあり、思索を重ねていく。
この世の真なる法則への近似度合により、その思索の正しさ度合が測られる。
「科学」とは、その時代の範疇で、真なる法則に最も近似度合が高い思索に贈られる称号である。
つまり、「科学」とは、真なる法則への近似さ度合の思索の質の測定度量の単位である。
つまり、科学と非科学はグラデーション的に連続しているのである。
f(x,e)=y
f:法則・システム・関数(事象の相互関連性)
x:fを構成する変数
e:環境(時・空・知識制約条件)
y:認知される事象
法則への思索とは帰納的方法により、fを求める行為である。
思索で求められた制約条件下でのf(x)(事象の相互関連性)はyにより確認される。
yにより確認された結果の優劣、度合が科学のグラデーションとなる。
【「科学哲学講義 森田邦久著」の場合】
科学哲学を広大な人間の思索という深淵から議論することなく、表面に出てくる手垢のついた「科学」のコトバで、「科学」を説明しようとする愚かさを演じている。
それ、悲観的機能主義とか、道具主義とか、奇跡論法とか、介入実在論とか、、、読めば読むほど、読者の頭脳を腐らせていく、筆者と同じ低レベルまで急降下で落とし込まれる加速度感が、不快感・脱力感を生んでいく、、、
【その詳細】
ズボンに入っている硬貨を例に規則・法則の違いについて述べているが、違いなど無い、制約条件の空間の違いである。著者が述べていることすべてが、私の「f(x,e)=y」の概念にすべて含まれ、解決される。
表面に現れる事象に個別に思索しても得るところは無いことが分からないのか、自分の頭で思索していないのか、思索しているとしたら、もっと、恐ろしい、、
p175
科学的説明とは何か
「科学的説明には因果説と統合説があります。」
意味不明、私の読み取り能力の欠如か、科学哲学者一般または森田邦久氏個人に由来する哲学する能力の欠如か
科学哲学者一般または森田邦久氏個人は自らの汗と涙で思索できないのか、
なぜ、その先へ、思索の核へと降りていかないのか、
私はこのように思索した、
ニュートンの万有引力の法則を題材に思索する
・なぜ、月が地球の周りを円運動するのか
A:地球の周りを月が円運動する
B:理由:月に働く2つの力があるから
・直線方向への力、地球に引っ張られる力
・直線方向の力:F=ma(m:質量、a:加速度)
・地球に引っ張られる力:F=GMm/r2乗
ここで、BはAの全体集合になっている
人の五感による認識A「地球の周りを月が円運動する」の理由を求めると
普遍的な法則Bが発見された。
普遍的な法則Bは、身近にある距離、質量の要素の関係性で成り立つ
法則とは
粗いレベルの五感での認識を、下位レベルのより小さな要素を用い、その要素間の関係を述べることで、五感での認識をせつめいしたもの
且つ、その法則で他の粗いレベルの五感での認識を説明できるもの
つまり、部分集合である五感での認識から、全体集合であるり小さな要素を用い、その要素間の関係を発見し述べること
科学に信頼を置く理由は
正しい観測情報により
その観測情報以下の基本要素を用いて、その要素間の関係性を述べる
その法則を用いて他の観測情報の説明ができる
つまり、部分集合の観測情報を、より基本的な要素でその部分集合の全体集合を作り出し、
その全体集合で、他の部分集合の説明がつく
から、その認識方法は科学と命名され信頼を置かれる
本書にある、説明の因果説、とか、説明の統合説、などの言説は思索の核の表面的な亜種であり、それらの中で遊んでも得られるものは無い、、、
森田邦久氏が述べていることは、意味がわからない、果たして本人も、科学についてどこまで、わかっているのか、、、
私の読解不足なのか、他書を確認して再考してみます・・・