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「MIND」p128~ ジョン・R・サール

p128
ネーゲルの議論はこう述べている、私の身体は 私の心がないとしても存在できるだろうし まさにそのようにあるだろう 、従って私の心は私の 身体私の身体の一部 私の身体のいかなる機能とも同一ではないのだ

心の定義を考えなくてはいけない、 心とは何を意味してるのか 、自分に属する物質以外のもの全てを指しているということで説明がつくのだろうか、 喜怒哀楽・ 思索 ・問題の発見・目的への計画・ 実施する意識・ 悩み考え 決断する 、このように 列記し続けても定義の謎は深まる

p128
信念や願望と言った 志 向的な状態は 世界を他ならぬあるアスペクトのもとに表象している

このような言い方しかできない著者は 説明能力がないのだと思う 、著者が言いたいのはこういうことなのだろうか、 つまり 信念や 願望 というものは歴史的な空間的な背景を持ったそれぞれの 対象物を基盤にして、出来上がる

p141
二元論の失敗と物理的 科学の成功があればこそ ともかく現実世界について言われるべきことはすべて 完全に唯物論の観点から説明できるはずだという印象を与える 、還元できない 心的現象の存在は おさまりが悪いものだし知的に厭わしいと思える 、それは受け入れ難いものだ

そういう立場なら確かに 意味のない無鉄砲な議論をしたがるだろう、現実を無視して自分の言いたいことを言いたいように言う時間の無駄

p154 155
/ここからが 著者の 考えを 述べ始めている 最も興味のある部分へと移行する/
心的過程の全ては 神経生物学的な過程から 引き起こされることに 疑問の余地がないことを わたくしたちは知っている、 わたくしたちは喉の渇きが 神経的な過程によって 引き起こされることや 感覚それ自体が 脳の内側で 生じている過程であることを 疑いの余地なく知っている

何を言ってやがんで 、何のためにグダグダと ここに来るまで過去の哲学者の 過ちの数々を眺めてきたんだい 、相も変わらず著者はその過ち の山にまた石を積んでいる、 神経生物学的に 心的に 渇きが 生じる 過程は わかる 、それでは 教会または神社のお参りの前に 水を手に掛けて 清め る行為というのは何によって生じるんだい、 それは神経生物学的に生じる行いなのかい、違うだろう 、なぜ心から発生し神経生物学的に繋がる因果関係を 取り上げてみようとしない?、なぜ それを隠そうとする?、 著者も初めから 唯物論ありき、それに合わせてすべての 事実を都合のよいものだけをよ せ 集めようとしてるからだ、この世の中は唯心論でなりたっている と思う、五感で感じるものも全て心が感じるもの 、目をつぶるとすぐにわかる、 目をつぶるとあるはずの物理的なものが消える、 盲目の方は その世界が 日常の世界 、クオリオがそのように了解する、 思考実験で 全ての人が盲目である世界を考えてみよう、 全ての人の了解する社会 、クオリオとして 感覚できるのは 暗闇の世界、 つまりこの世は唯心論の一元論である、 心的なものも物理的なものも全て繋がって一元的なのである